私は前橋の日赤病院で生まれ、当時は千代田町1丁目に住んでいました。ただ、幼稚園から高校までを桐生市で過ごしたので、自分の感覚では「地元」といえば、やはり桐生です。
そんな桐生に、昔から名前だけは知っていながら、一度も訪れたことのない場所がありました。
桐生の織物の歴史や、昭和天皇が桐生を訪れた際に起きた「誤導事件」など、子どもの頃から断片的に聞いた記憶がいくつか残っていて、それらを改めて調べてみたくなり、今回訪ねてみました。
場所は、広沢町にある 「国指定重要文化財・彦部家住宅」です。
ここは単に古い民家が残っているという場所ではなく、彦部家そのものが桐生の歴史と深く結びついていました。現在の主屋は江戸時代前期の建築と考えられ、土塁や堀、長屋門など、中世の武士の館を思わせる屋敷構えが非常によく残されています。国の重要文化財に指定されているだけでなく、屋敷地は「彦部氏屋敷」として群馬県の史跡にも指定されています。
彦部家の家伝によれば、その系譜は古代の高階氏にまでさかのぼり、もともとは朝廷に関わる家柄であったとされています。その後、武士として活動するようになり、室町・戦国時代には足利将軍家の近習として京都で仕え、戦国時代末期の永禄4年(1561年)ごろに現在の桐生市広沢の地に定住したと伝えられています。近世になると武士の身分を離れ、有力な農民・名主として地域を支えていきました。
そして、彦部家と桐生織物との関係は想像していた以上に深いものでした。
彦部家には、16世紀中頃、足利将軍義輝の侍女・小侍従から彦部雅楽頭晴直に宛てた「仁田山紬注文書」が残されています。仁田山紬や白綾などを注文した文書で、当時すでに桐生周辺で作られた織物が京都まで流通していたことを示す貴重な史料です。
江戸時代には農業だけでなく染めや機織りも営み、後期には黒繻子を創り出したとされています。さらに明治から大正期には屋敷内に織物工場や女工の寄宿舎、医務所まで設けられ、近代的な織物工場へと発展していきました。また、一族には国学、和歌、薬学、華道などに通じた人物もおり、屋敷内には寺子屋「松広学舎」まで設けられていたそうです。
特に印象的なのが、第14代当主の「彦部駒雄」です。
彦部駒雄は1926年に桐生織物同業組合の組長となり、約10年間にわたって桐生織物の発展を支えました。自らアジア各地を視察し、海外駐在員を派遣して輸出を拡大する一方、国内でも積極的な宣伝活動を展開しました。「桐生工業学校」の設立や「桐生織物史」の編纂、現在の「桐生織物記念館」につながる「桐生織物会館」の建設にも力を尽くしています。
そして、私の記憶にあった「天皇陛下が桐生に来た時に道を間違えた」という話も実際にありました。
昭和9年(1934年)、昭和天皇が桐生を行幸した際に、天皇の車列を案内していた先導車が予定の経路を誤った「天皇誤導事件」が起きています。したがって「天皇陛下を乗せた車の運転手が道を間違えた」というより、「御車列を先導していた車が道順を誤り、予定していた訪問順序が入れ替わってしまった」というのが正確でした。桐生市の公式年表にも、1934年の出来事としてこの事件が記録されています。
しかもこの1934年は、彦部駒雄が組長を務めていた桐生織物同業組合の新しい会館が完成した年でもあり、まさに桐生織物が最も勢いのあった時代でした。昔から断片的に覚えていた「桐生の織物」「昭和天皇の行幸」「彦部家」といった話が、今回訪ねてみたことで一本の線につながったような感じがしました。
現地では案内してくださった彦部家の奥様の話がとても興味深かったので、本も2冊購入しました。1冊は彦部家の古代から近代までの歴史をまとめたもの、もう1冊は彦部駒雄について書かれたものです。建物を見るだけでも十分興味深い場所ですが、彦部家の歴史をたどっていくと、そのまま桐生の織物産業や地域の歴史をたどることにもなり思っていた以上に奥の深い場所でした。

